西郷隆盛について
西郷隆盛と言えば、東京上野の銅像で有名ですね。西郷隆盛の本名は隆永、通称は吉之介。武士(薩摩藩)であり、軍人であり、政治家です。薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称されています。 西郷隆盛は、1827年に薩摩藩の下級武士・西郷吉兵衛隆盛の長男として誕生。藩主・島津斉彬に認められ、江戸に出て庭番として仕えます。 第一次長州戦争の戦後処理にあたった頃から倒幕に転じ、坂本竜馬の仲立ちで、対立していた長州藩の木戸孝允と薩長同盟を結び、倒幕運動の中心人物になっていきました。
1867年12月、ついに王政復古の大業を成し遂げ、その後、西郷隆盛は、明治新政府の指導者の一人として、廃藩置県などの改革を進めました。しかし、朝鮮出兵を巡っての征韓論で、大久保利通らと意見が対立して政府を去ることに。 私学校で教育に専念していた西郷ですが、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、1877年に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となり、7カ月にわたる戦いの後、敗れて城山で自刃しました。
坂本龍馬が動くことにより成功した薩長同盟、これにより日本の歴史は大きく変わりました。 犬猿の仲だった薩摩と長州。この薩摩と長州の仲を取り持ち同盟を結ばせた立役者はもちろん坂本龍馬ですが、その龍馬に指令を出していたのが、西郷隆盛と言われています。 龍馬と西郷が初めて会ったのは、1864年の8月中旬ごろ。 当時、薩摩と会津が協力した政変で長州が京都を追われ、その報復として禁門の変が起こるなど、時代が激しく動いている中、龍馬と西郷は、軍艦奉行であった勝海舟の紹介により会見したと予測されています。 勝海舟が禁門の変の責任を問われて軍艦奉行を罷免され、また勝が塾頭を勤める幕府運営の海軍操練所が閉鎖されると、龍馬など海軍塾生は行き場を失うことに。そんな中、龍馬は勝の周旋で、薩摩藩士・西郷隆盛の世話になることになります。 西郷の実家で厄介になっていた龍馬は、貿易会社「亀山社中」を設立。これが後の海援隊になるのですが、龍馬は西郷の指示で密使として長州に接近、薩長同盟を説いたとのこと。 龍馬などの功が奏して1866年に薩長同盟が結ばれ、大政奉還へと至ることに。 薩摩藩の命運をかけた薩長同盟に、西郷は行動力のある坂本龍馬が必要だったのでしょう。 激動の時代を駆け抜けた二人の存在は、その後の日本の歴史を大きく変えていきました。
カテゴリ:関連人物
